直江山城守兼継
日本史史上最も徳川家康を嫌った男と言えば上杉景勝の家臣、直江山城 守兼継ではないでしょうか。上杉景勝は直江兼継を自分の片腕とも思い、 政事のことは一切を任せきっていたといわれています。 直江兼続石田三成は非常に似た性格の持ち主であり両者とも徳川家康を 嫌っています。関が原の合戦においても連絡を取り合い共に家康打倒に たちあがります。 豊臣秀吉によって越後から会津に国替えを言い渡されますが、このとき 上杉家は120万石になり、その内直江兼継は直轄地を30万石も秀吉 より与えられます。普通この時代の大名であれば30万石もあれば独立 したがるのもので、上杉景勝から直江兼継を引き離す秀吉の策略であっ たと近年の研究では言われています。 秀吉亡きあと家康の横行には目にあまるものがあると、世に伝わる 「直江状」なる書状にて家康を痛切に批判します。 この書状の内容については研究家により諸説ありますが、当の徳川家康 を面と向かってこれほど罵倒した人はいないでしょう。